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<ことばは生きている>

近年では、次々オートメンション化され日常生活の中でコミュニケーションの遣り取りが少なくなってきている。先日も行きつけの中華店で餃子のお持ち帰りを頼もうとしたら、定員さんに「そこの自販機でお願いします。」と言われ、あーあここも自動化になってしまったのかと、ボタン操作をした。今ではスーパーでもどこでもかなりオートメーション化され、店の人とのコミュニケーションが少なくなってしまった。定員さんとのちょっとしたことばの遣り取りが心の癒やしになっていたのでとても残念に思う。そういえば以前新聞のコラムで読んだ1文が今でも心に響いている。

「声は体である。体とは肉体ではない。体とはことばである。それは姿勢であり、歩き方や身振りであり、声であり命である。」と書いてあった。まさに声は、体であり命である。人は、ことばを通して意思疎通する。自分を理解してもらうのも、相手を知るのもことばを通してである。

夏休みも終わり、2学期が始まり1週間くらい立って養護教諭が、一人の男子生徒を連れて相談室を訪れた。彼は夏休みが終わって2日目から学校でも家でも突然全くしゃべらなくなってしまったという。登校初日は普通に友達とも話していたが、次の日から家でも学校でも全て筆談となってしまったそうだ。

相談室に入室の際に、養護教諭に促されてぴょこんと頭を下げた。表情はニコニコしていた。私が「今日は」というとニコニコしながらまたぴょこんと頭を下げた。表情は良いが、何かを訴えるような眼差しは見て取れた。しかし、私は唐突な質問を彼にした。「何か小動物を飼っている?」彼はびっくりしたように「何も飼ったことがない。」と紙に書いてきた。私は勝手にしゃべり続けた。「小鳥もかわいいし、ハムスターやミドリガメ、ウサギもかわいいね。猫や犬もかわいいし。」と言うと彼はニコニコしながらうなずいていた。「何か飼ってみたい小動物有るかな?」と聞くと「ある。」と筆談で返してきた。「そうなの、何かな?」と聞くが黙ってニコニコしていた。その後もたわいない話をし、筆談の遣り取りを40~50分した。最後に「もし良ければ来週もおいでね。」と告げるとニコニコ頭を下げ退室した。

1週間後に彼一人で相談室を訪ねてきた。ドアをノックし、ニコニコと頭を下げ入室した。手には紙切れをもっており、見せて欲しいというと「ミドリ亀を2匹父親に買ってもらった。」と書いてあった。「名前はつけたの?」と聞くと2匹の亀の名前を書いてくれた。「どんな亀?」の質問に1匹ずつ細かく特徴を書いてくれた。彼の観察力には素晴らしものがあった。私は「すごい、かわいいでしょう、餌はどうしているの?」など次々彼に質問した。彼はその都度筆談で返してきた。私は彼が書くのを期待しながら待っていた。その後彼と筆談によることば遊びを始めた。お互いが知っている名詞を5分間でどっちが多く書けるか競争をした。また、ことばのしり取りゲームでは、彼はニコニコしながら次々紙に書いた。

筆談によることば遊びを始めて3ヶ月位経った時、彼が「病院の心療内科の先生に入院したらどうかと言われた。」と書いた紙を見せた。私は、「君はどうしたい?」と紙に書くと「入院したくない」と書いた。一瞬彼が暗く不安げな表情をしたのを見て、「君が決めればいいよ。入院したくないのだったら入院しなくてもいいと思うよ。」彼はニコニコしながら「分かった。」と書いてきた。その後も筆談によることば遊びは続けた。彼は入院をしなかったが、相談室には毎週訪れた。私は、彼からの全身のエネルギーを感じながら何も考えずにことば遊を一緒に興じた。時々笑い声を聞くようになった。5ヶ月位立って放課後に部活動を見ていた彼が、「部活にでようかな。」と言ったのを彼の側にいた友人が聞き、担任に伝えたようだ。彼は夏休み明けからずっと保健室登校をしていた。保健室で勉強をして、放課後は一人で帰っていたようだ。

半年も経った頃、教室にも入れるようになり、徐々に前の生活に戻った。養護教諭からは、随時報告を受けていた。

「ありがとうございました。」と、彼が暫くぶりに相談室を訪れた。私は初めて彼の声を聞いた。可愛らしい顔に似合わず野太い声に驚き、養護教諭に「あんなに野太い声だったの、がっかりした。」と言って笑われた。

5ヶ月間全く話せず、筆談生活を続けた彼はどんなに辛かっただろう、私は最後まで緘黙になった原因は聞かなかった。話せなくなったこと以上に辛いことがあったのだと思うから。彼とは体全体で筆談によることば遊びを心の底から楽しんだ。言霊ということばがあるけど、彼と私の繋ぎは筆談による言霊だったと思う。筆談による言霊は、かれにとっても私にとっても体全体であり、命であった。

NPO法人21世紀教育研究所

向井幸子

向井 幸子

臨床心理士
向井幸子プロフィール(通称さっちゃん先生)

1993年不登校という言葉もまだなかった時代、まだ日本で黎明期のオルタナティブスクール・スタッフとして勤務。そこで友人、教師、学校、家庭、自分自身などで悩み葛藤する数多くの生徒と出会い、臨床心理士として活動を始め、延べ数万人の支援を実施。
その後、数多くの実績を買われ公立小・中学校の教員のためのスーパーバイザーとして活躍し通信制高校カウンセラーを経て現在NPO法人21世紀教育研究所シニアカウンセラー